
西洋音楽のその生誕の地で、文化や歴史とともに音楽の勉強をしたいと考えたので。
平成17年10月~平成18年11月
ウィーン国立音楽大学(オーストリア)
音楽学科指揮
私が留学を意識したのは、日本での指揮のレッスンで感じたことがきっかけでした。私がまなんでいた大学で、ドイツ人の客員教授の先生が演奏したハイドンの交響曲「時計」が素晴らしくかろやかで、繊細で、それでいて、しっかりとした主張のあるハイドンで、その音に緻密さ、そして、構成感のある音楽にすっかり感動したのでした。こういう音楽は、日本人にはできないのだろうか、もしできるとしたら、そのヒントは日本ではなくてヨーロッパにあるに違いない、なぜなら、普段日本ではこんなハイドンは演奏されないから、と考えたからです。
そんな思いを抱いて訪れた入学試験では、やはり何か日本とは違う点を見られていたようで、日本では準備ほとんどなしに合格は現実的には大変厳しいものですが、入試の2週間前に航空券を手配するという、間際の決断で、ほとんど準備なしにもかかわらず、正規の学生としての合格を果たしました。もちろん、それには、日本の東京藝術大学で学んだことが基礎となったわけで、その間、ずっと経済的な援助をいただいた、電通育英会には、大変感謝しております。その経済的な援助がなければ、当然この合格も、そして入学もなかったです。この場を借りて、改めて、お礼申し上げたいと存じます。
秋になり、不安なドイツ語を抱え、ウィーンに降り立ち、住居や電話など生活に必要なものの立ち上げの契約と大学の授業の開始がほとんど重なり、非常に苦しい時間を過しながらの留学生活が始まりました。最初の半年は、今は6歳になる娘(当時4歳)との二人暮らしで、お互いに体調を崩さないようにだけ注意して、用心深く暮らしていました。なので、生活を軌道に乗せ、私は大学につつがなく通うこと、娘は幼稚園に休まず通うこと、をこなすのが、正直精一杯のような生活でした。しかしながら、友達にシッターを頼んだりしながら、自分の勉強のフォローをし、または、時には皆で一緒にコンサートやオペラに行ったりし、現場の呼吸を忘れないようにしました。音楽的内容を楽しむのはもちろんのことですが、そこで学ぶこともたくさんあります。またウィーンには非常に偉大な音楽家がたくさん訪れ、いい演奏会もたくさんあります。最高の名演奏に触れて、感動の涙を流すことも少なからずありました。そういう機会を得るたび、その曲に対する理解や知見が深まり、自分が演奏者の立場にたったときに、偉大な力を発揮することになりました。
大学での指揮科の授業の内容は、非常にバラエティに富んだ豊かな内容でした。
例えば、オペラの伴奏学の授業では、単に譜面とおりにピアノで再現できることのみならず、オーケストラではどんな楽器がその部分を演奏しているか、その演奏している楽器の音を要求される、という、高度な内容でした。弦楽器なら弦楽器が音を鳴らしているような音をピアノで再現する、これはどこまで追求しても、ここでいい、というようなことはないほど、深い内容です。さらに、弾きながら、歌手にアインザッツを出すこと、歌詞を歌えること、まさに、オペラハウスのコルペティが要求されるような内容を求められます。さらに、2年生からはあわせてオペラ指揮の科目が増え、実際にピアニストを相手に、指揮をしながら歌うことを要求されたり、と段々に要求されることが高まっていきます。先生は、指揮者のカラヤンと一緒にお仕事をされていた方で、大変熱心で、さらに違うところがあったりできなかったりすると、大変な勢いで怒られ、授業はそこで終わりです。緊張感が高く、皆先生を怒らせないように協力し合い、必死に内容についていこうとしています。その授業では、オペラの呼吸を学べたと思います。これは、本当に、オペラ指揮者にとっては、とても大切なことです。
また副科の授業が充実していました。副科というのは、専攻の指揮科の学生は必ず楽器のことを理解していなければならないので、何かオーケストラの楽器の授業と、声楽、打楽器を取らなければならないのですが、その先生方が皆さん、大変熱心で、何かの演奏会をやるとなると、そういう副科の先生方が、スコアを片手に、「ここは以前、こういう指揮者と一緒にやったときには、こうだった」とお話をして、解説をしてくださるのです。こういう演奏者側からのアドバイスが、大変貴重なアドバイスとなり、毎回の演奏会に生かされました。
そして、音楽史、オペラ学、オラトリオ学、という音楽の歴史を学ぶ授業に、非常に苦しまされながらも、実は、これが大変役に立っています。こういう科目は、すべてもちろんドイツ語で学ばなくてはならず、日本語で学ぶのにも苦労する類の科目を、さらにドイツ語という言葉の壁が、さらに困難さをましていました。幸い、大変良いドイツ語の先生に出会い、彼女の助けを毎回借りて、なんとか、単位を取るような状況が続いていました。
しかしながら、こういうものも、だんだんに勉強が進んでくると、あらゆることがつながり、結局はそれが演奏するときにも、いろんな場所で、てがかりとして生きてきはじめました。指揮をする際に重要なことは、表面の音符を追うことではなく、その下にあるものが何か、作曲家が表現したかったことは何なのか、それを演奏者たちに示し、全体の方向性をうながしてあげることなので、音楽史の知識も、その根拠を支持するために、大変役にたつわけです。
こうして、実際のいい演奏にふれて、呼吸を学びつつ、歴史や実際の奏法なども身につけ、当初の目標であったこと以上のものが身についたと思います。実際の文化は、市内や近隣諸国を旅行することで、その地域の食事や文化、美術館を訪れたり、人と交わったりすることで、身にしみてくる経験を繰り返しました。チェコを訪れて、モルダウを見たときに、あのフルートの調べの意味するところがわかった、というようなことが、イタリアでも、フランスでも、訪れた国すべてで起こるわけです。音楽家にとっては、大変貴重な財産です。
日本を離れ、ヨーロッパの異文化の国に住み、改めて日本が見えてきた、ということもたくさんありました。私のクラスの指揮の先生が、「以前はヨーロッパの文化がひたすら日本に輸出されていたが、今は日本の文化がヨーロッパに輸入されている。これから新しい時代の幕開けだ」とおっしゃっていました。新曲などを通してはもちろんですが、クラシックの作品を通じても、こういう流れの発展に何か役に立てたら、そしてヨーロッパと日本の文化の架け橋になれたらいいな、と、考えています。
最後になりましたが、御奨学金の援助なしには、この留学はなしえませんでした。心からお礼申し上げます。ありがとうございました。