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先輩の留学報告

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平成15年度生
上東京外国語大学外国語学部ポルトガル学科4年  金澤 敏正

留学の目的

ポルトガル語の総合的運用能力の向上。ポルトガル植民地史の現在の関心テーマ(マカエンセ)に関する資料収集および当該国近現代史(国民国家形成史と人種主義史)の研究動向の把握。

期間

平成15年10月~平成16年6月

留学校

国立コインブラ大学(ポルトガル共和国)

学部

文学部ポルトガル語学科

2003 年10月1日から2004年6月30日まで東京外国語大学を休学し、電通育英会の給付奨学生としてポルトガル共和国国立コインブラ大学文学部に学ぶ機会をいただきました。コインブラ大学は、サレルノやオックスフォードといったヨーロッパ最古の大学のひとつにかぞえられ、中世期にイベリア半島でキリスト教共同体によって開始・展開された国土回復運動が、同国において終止符のついた1249年後、正確には1290年に、同国の中央集権化を実現する手段としてのローマ法を研究することを目的として、当時の王によって創設されました。現在は、ポルトガル共和国を代表する国立大学として多くの知識人を輩出し、全国的な知の研究・教授の「メッカ」として日々躍進しております。

さて、私が所属した文学部外国人上級コースは、将来的に母国でポルトガル語教育に従事する人を対象としており、私のほかに、フィンランド、ハンガリー、ブルガリア、ロシア、ドイツ、そして隣国のスペイン(ガリシア、カタルーニャを含む)から参加者が集まりました。私以外全員、ヨーロッパ圏出身でしたが国際色豊かであり、また、かけがえのない友人としてはもちろん、イギリスの歴史家E・ホブズボームのいう「短い20世紀」が終焉したとされる、1991年のソ連消滅から今日までの約10 年間の時の流れのなかで、新たに現実化してきた地球規模の様々な再編成の動向に同調し、日々革新してきたヨーロッパを語り合うよきパートナーとしても大切な存在でした。ちなみに、クラスの外でも、ポルトガル人の正規学生やエラスムスとよばれるEU諸国間での大学生交換留学制度で学びにきている学生とも交友し、カルチャーショックをはじめ、様々なことを体験しました。

当該国への出発前に構想していました3つの目標についていいますと、100パーセントとはいえませんが、ほぼそれらに到達できたと思っています。ひとつめのポルトガル語の総合的運用能力についてですが、昨年よりも大分向上しました。大学では、無論、ポルトガル語で講義がおこなわれ、またポルトガル語は唯一、クラスメートの意思疎通の手段でもありましたし、教師がだす課題もポルトガル語を用いて作成しなければならなく、さらに、日常生活の様々な場面においてもポルトガル語で対処しなければなりませんでした。故にこの一年間は、ポルトガル語とは「四六時中」の関係だったのです。(何度かではありますが、ポルトガル語で夢を見ました!)

授業は、教養科目として、社会言語学入門、ポルトガル文学講読、人文地理学(ポルトガル現代社会の移民問題が中心)、ポルトガル芸術の歩みの4科目、言語科目としてポルトガル語上級の1科目の計5科目から構成されていました。そのなかでもとりわけ私の関心を惹いたのは人文地理学で、1986年のEC(ヨーロッパ共同体)の加盟以来、旧植民地諸国以外の諸地域(ウクライナやルーマニア、モルドバ、そしてロシアといった東欧圏からが主)から多くの労働移民が合法・非合法の形で当該国に流入している状況や、ここ近年、増加の一途を辿っている中国人労働者に関する諸問題(経済的成功にたいする妬みや黄禍論の再燃を彷彿させる黄色人種への熾烈な嫌悪感)など、この国が抱える21世紀の課題を発見することができました。おかげさまで、当コースを修了した証書が文学部から授与されました。当コースの修了証書は、ポルトガル語を教育・普及に従事することを当大学が公式に認めるものですので、今後、これを励みに研鑽を積んでいきたいと思います。

ふたつめの目標である卒業論文に関する文献収集については、当大学の総合図書館を利用しました。私のテーマは、1999年までポルトガルの施政権にあった中国広東省のマカオをその対象地域に選び、「ポルトガル系子孫にあたる居住民」または「ポルトガル人と中国人を両親とする混血児」などと、それを巡る様々な定義があるにせよ、実際これまでひとつの実体的な集団として認識されてきたマカエンセという人々を、ポルトガル人の居住権獲得の16世紀中葉から当該地域の中国返還が公式に決まった1987年までの約4世紀半にわたる歴史と、現地民である中国人や家内奴隷としてポルトガル人に連れてこられたアジア・アフリカ出身の人々、そしてその他の国・地域の航海者達との複合関係の歴史的変遷・推移に着目し、彼らが歴史的にどのようにひとつの集団に括られるにいたったかを明らかにすることです。人種やエス二ーを基準として植民地国家体制が築かれていく19世紀から20世紀初頭までがこの人々の形成プロセスの鍵となります。これにより、新たなポルトガル帝国主義史や当該地域史の構築材料を提供するばかりではなく、中国とポルトガルという従来の国民国家を単位とした一国史観を、それ自体をヨーロッパ近代の思想的産物(プロイセン・ドイツのそれが先駆をなすもの)として把握・相対化し、省み、その果たした役割、弊害と限界とを再認識し、動態的な視点で柔軟性ある21世紀の歴史観の可能性を示すことができればと思っています。まだまだ未開拓の領域であり先行研究も少ないですが、幸いにも、関連する優れた文献がいくつか見つかりました。ちなみにですが、目下のところ、当テーマはとりわけ社会人類学の領域で意欲的に取り組まれています。これらの最新の成果と古典的な歴史研究のそれをもとに、これからの数ヶ月最後の詰めをしていこうと思っています。

三つめの、その他のトピカルな研究テーマに関するポルトガル国内の動向の把握ですが、これも関連の刊行史料(まだきちんと扱うことはできませんが)や専門誌が網羅的にそろえられている総合図書館がおおいに役立ちました。ひとつは、当該国の国民国家の形成についてですが、これまでの研究史を振り返ると、ヨーロッパ列強でのアフリカ分割の策定を議題とした1884年のベルリン会議から6年後の1890年、南部アフリカでイギリスの縦断政策とポルトガルのアンゴラ・モサンビークを結ぶバラ色政策とが衝突し、イギリスがだした撤退要求の最後通牒をポルトガルが受け入れたことに大衆が反発したのがその始まりであり、1930年からの「新国家」体制という独裁制において本格的に具現化したとされてきました。確かに、この2つの事象は、植民地主義とナショナリズムの形成にかかわるという従来の理論を反映し、その他の全体主義国家(ドイツ、イタリア、スペインなど)と同様に、極端な中央集権政策がその推進力となったとしています。しかし、それのみでは、例えばですが、エリート、有産家、労働者、民衆といった多様な社会層がどのようにして「ポルトガル国民」という帰属意識を認識し、当然のものとしてまたは切実なものとして共有したのかといったものがみえてきません。実際にそういったことが指摘され、先に述べた通説に補完する形で新たな知的営為がホットにおこなわれています。いずれにしろポルトガルは、検閲が熾烈であった1974年までの独裁体制の崩壊から今年でようやく30年目をむかえましたから、その成り行きに今しばらくの間、大きな期待とともに注視してゆくことが必要だと思います。しかし、研究の質という面からといいますと、専門家からみても私のような素人からみても、英国や米国、仏国のそれとの間にはまだまだ大きな差がありますので、当分の間は英米仏の研究成果を視野に入れ、同時に、国内の研究動向も注視してゆきたいと思っています。

もうひとつは人種主義に関する資料についてですが、これは時間の制約上、収集・整理までにはいたりませんでした。人種主義は、一般に、白色人種と有色人種(アフリカ・アジアなど)とに分類し、前者の優位性を肌・髪・目の色といった身体的特徴とキリスト教を核とした文化を基準に正当化してゆく、19・20世紀に世界的に席巻した悲しきイデオロギーです。ポルトガルは、周知の通り、ヨーロッパ諸国の中で先駆けて黒人を奴隷として売買するビジネスを展開しました。また、19世紀の奴隷制廃止が実現した後も、その他の列強(イギリス、スペイン)とともにそれに代わる労働力を補うために、中国南部に拠点を設けて中国人をラテンアメリカ諸国に不当な形で売買しました。さらに、1961年に始まるアフリカ植民地(アンゴラ、モサンビーク、ギニア・ビサオ)での独立解放戦争では、「第二のベトナム」とまで形容されるほど苛酷な戦闘が展開され、兵士たちの大団円としての1974年革命(カーネーション革命とも形容される)によってその戦争に終止符がうたれましたが、黒人へのトラウマ的人種憎悪は消えうせることなく、白人であるポルトガル人の心奥に潜む結果となりました。このようにポルトガルは、歴史的にその他のヨーロッパ諸国と同様に、長い間白人種ではない「他者」と関わりをもってきました。この分野を研究することは、私の関心テーマである19世紀の植民地分割期におけるポルトガル植民地の実像に迫ることですので、今後も継続して関心を高めてゆきたいと思っています。

最後に、今回の留学をつうじて痛切に感じたこと学んだことを端的な形でまとめ、報告を終わらせていただきたいと思います。それは、-自身の学習成果や関心領域とは直接関連しないのですが-西洋主導による「世界の一体化」という歴史的変遷のなかで、いかにして日本はそれに対応し、今ある姿に至ったのかを総合的に考える必要性です。これは、そもそも、当該国での日本の認識がいかに低いものであるかを身をもって感じ落胆したことや、黄色人種である私が侮蔑的な眼差しをむけられた経験などに由来するのですが、21世紀という新たな世紀に生きる私たちにとって、「外国」とのこれまでのかかわりの中でアジア主義と国際主義をうまく調整する宿命を与えられたかのような現在の日本が、今後、どのような舵取りでもってそれを実現してゆくかを真剣に議論することが優先課題であるようにおもえます。明治維新は、西洋をモデルとした「文明化」プロジェクトによって「世界の一体化」に参入する画期となり、「近代日本」は日露戦争の勝利・韓国併合・二度にわたる世界大戦の参加と敗北いうベクトルのほうに進んでいきました。そしてこの間、同時並行的に、黄禍論の出現・東アジア諸国でのナショナリズムの高揚・アメリカによる黄色人種への究極的恐怖と憎悪を体現化した二度の原子爆弾の投下と、一連の悲劇が続いたのでした。ジョン・ダワー著のタイトル『敗北を抱きしめて』のとおり、冷戦期のアメリカの対アジア・太平洋安全保障体制に組み込まれた戦後日本に生きた人々は、恒久的平和にある新たな国家を切に願って復興へのロードを進んでいきました。さまざまな国際情勢や国内での諸問題(安保闘争、公害問題の発生など)に翻弄されながらも、日本は 60年代の高度経済成長期、70年代の安定期、そして80年代のバブル期を経験し、もはや「西洋」を自明のモデルとする必要がなくなり、「自立経済大国」日本として世界にしられるようになりました。その光輝かしい成果は、かつて日本に占領された東・東南アジア諸国の人々や、アジアの宿敵としてライバル視してきた欧米諸国の人々にとって羨望の的である反面、成功をてらっていることに他ならない嫉妬と嫌悪の対象でもありました。それは、植民地独立戦争に揺れた 1960-70年代の東南アジアで精力的に活動した日本人駐在員の方々が実感された反日感情や80年代の日米摩擦に由来する日本製品ボイコット運動からも読み取ることができます。ちなみにですが、橋川文三の著書『黄禍物語』は、後者にみる切実さを見事に読者にうったえています。このように、経済不況の影響や社会秩序・モラルの乱れなどによるその先行き不安が散見されるにせよ、私たちが生きる今は、世界的にみて非常に「豊か」であります。しかし、この今を構成する様々な要素には、当然ですが、先の悲しき諸相もみられます。

これまでの経済・技術を主軸においた公的、社団的、私的な日本の海外貢献は相当な成果をのこし、これからもグローバル化が席巻する中で続けられ、また、政府の国際連合の常任理事国入りの正式表明、海外留学の必要性の世間一般での認識などといった「地球社会」への意欲的な姿勢もますます高まるでしょう。しかし、もうご周知ではあると思いますが、世界では、テロが連続的に、民族紛争が長期的に展開されています。同様に、私たちの周辺では、中国の軍事力の増大化、北朝鮮の核疑惑、先日中国で開催されたサッカーアジアカップでの反日感情といった諸問題もあります。私は、こういう時代だからこそ歴史をみなくてはならないとはいいません。人々はいつの時代でも過去の真実を知ることを渇望し、そのなかに教訓を求め、迫りくる危機に対処し、懸命に生きたのですから。<過去>と謙虚に対話する姿勢をもって、世紀の転換期にいた私たちは今、歴史に取り組みこの現実を進まなければならないのです。このようなことがあってこそはじめて、西洋と東洋のふたつの文明の狭間にたたされ、その葛藤に悩みながらも先進国となった日本を再認識し、世界初の原爆投下をとうして明確になった言語・宗教・思想・価値観や人種といった文明的で根源的な相違ゆえにおきた悲劇に学ぶ真理をくみとり、日本独自の明確な意思とヴィジョンを確立することが可能となり、国際社会への、私たちの正義感と信頼に満ちた平和と繁栄を希求する精神が伝わるのです。

この一年間の留学生活は本当に有意義でした。まだまだ非力であり若気の至りのある私にこのような機会をくださった電通育英会の皆様に感謝の意を示したいと思います。

本当にありがとうございました。